かなえる旅④の前に...

奈良・京都3泊4日いつかを叶える旅4日目午前

 

いつかを叶える旅3日目は違うタイトルで投稿済「旅先より」(2月14日)

秋篠寺〜大和文華館〜京都へ移動して出町座で映画「千年女優」鑑賞

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千年女優何度観てもラストで号泣する。主人公千代子が時を超えて疾走するシーンとラストのセリフと平沢進さんのRotation(Lotus-2)セットでたまらんのです!

 

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最終日

京都駅で帰りの新幹線の切符を発券、図録とお土産等をロッカーに預けて市バスに乗り込む。窓の外は京都だけれど私のなかではいまだ奈良の余韻が続いていた。最終日まずは京都市北区鷹ヶ峰にある本阿弥光悦ゆかりの光悦寺を目指す。でもその前に昨日の技芸天とやまと絵の事をもう少しだけぼんやり考えていたかった。揺れる車内でおもむろに白洲正子の未読だった「秋篠のあたり」を開く。さっきまで見ていた土地の記憶を白洲さんが趣きある筆で多層してくれる。面白く読み進めるとある文章にぶつかった。

 

 

"もし言霊というものがあるならば、自然の景色にも魂があってもいい筈だ。それはたとえば葦手書のように、ささやかな水の流れ、草の葉末にも、言葉がかくされており、辿って行くとやがては一つの歌になる。歴史になる。そういう風に見る習慣が、いつの間にかついてしまった。これは私だけのことではあるまい。自分が今生きていることの不思議さに気づいた人々が、一様に経験している物の見方ではないかと思う。"

 

「十一面観音巡礼」白洲正子著より

 

 

うまく伝わるかどうかわからないけれど、この文章に感動して震えてしまい車内で涙が出るのを必死でこらえた。身内が他界してしばらく経ったころから故人は(ご先祖さま)私の血と共にあること、それと自然のなかに風景のなかに存在すると漠然と思っていたからだ。30年近い思いを白洲さんの言葉で撫でてもらった。この日から先生と呼ぶ事にしました。皆とは言わないけれどもこれに近い思いを抱いている人がいる、一人ではなかったんだと嬉しくなった。それからこの白洲先生の文面からこれまで鑑賞してきた文化財の数々が一瞬で次々に浮かび繋がって大興奮した。鑑賞の気づきをいただいた。それは平安時代の「和漢朗詠集」「一字蓮台法華経」といったやまと絵や光悦の※葦手遣いが目を引く国宝「舟橋蒔絵硯箱」同じく光悦と俵屋宗達ふたりの譜面にも似た「鶴図下絵和歌巻」昨夜劇場で聴いた平沢進「Rotation(Lotus-2)」の世界観、そして"命の不思議"を歌った宇多田ヒカルの曲たちそれら全部が繋がった。

 

 

葦手絵和漢朗詠抄 上・下巻

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534321

 

一字蓮台法華経

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192863

 

舟橋蒔絵硯箱

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/472313

 

鶴図下絵和歌巻

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/544995

 

 

※あしで‐え ‥ヱ【葦手絵】


〘名〙 大和絵の一種。葦手の文字を巧みに取り入れた装飾的な絵画。料紙の下絵などに用いられたが次第に模様化して、蒔絵(まきえ)や服飾などに用いられるようになった。葦手。
※本邦刀剣考(1793)「葦手絵と云は鞘の蒔絵を歌の心を文字と絵と交じへて書くなり」

 

コトバンクより

 

 

2月26日TV初披露された宇多田ヒカル「何色でもない花」のパフォーマンスを繰り返し視聴するうちに最初の"君がくれたのは何色でもない花"と"私たちの心の中身は誰にも奪えない"の間に長い時間の経過を感じて、言葉じゃなく耳にしているメロディでもなくそれ以前に、テレビに映る宇多田ヒカルという一人の人間の姿に強く惹かれた。まるで日本画鑑賞時の余白、新曲にはその感触がした。言葉にならない思いを感じとった。滅多に使わない言葉だけど天才だなぁ。

 

SAKURAドロップスのMVをきっかけに日本画鑑賞に興味が湧いて熱心に調べたり少し他の事にも興味が出たり、なんだかんだで何年経ったかな。今となってはいい趣味を持てて楽しい!

 

次回光悦寺でも感動の渦!